违う是怎么从宫庶原型是谁变为违い的? 违い后面为什么加ますから而不是ですから?

这个和词性八竿子打不着呀违います是敬体,违う是简体都是判断动词。

你同学想说的是比较熟悉的人之间说话多用 违う 吧

类似于和领导打招呼说 早上好, 但和同倳之间说个 早 就行了。。

 朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、

かな叫び声をお挙げになった

 スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。

 お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませたヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張では無い。婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違っていらっしゃる弟の

がいつか、お酒を飲みながら、姉の私に向ってこう言った事がある。

があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ爵位が無くても、天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるし、おれたちのように爵位だけは持っていても、貴族どころか、

にちかいのもいる。岩島なんてのは(と直治の学友の伯爵のお名前を挙げて)あんなのは、まったく、新宿の

の客引き番頭よりも、もっとげびてる感じじゃねえかこないだも、

(と、やはり弟の学友で、子爵の御次男のかたのお名前を挙げて)の兄貴の結婚式に、あんちきしょう、タキシイドなんか着て、なんだってまた、タキシイドなんかを着て来る必要があるんだ、それはまあいいとして、テーブルスピーチの時に、あの野郎、ゴザイマスルという不可思議な言葉をつかったのには、げっとなった。気取るという事は、上品という事と、ぜんぜん無関係なあさましい虚勢だ高等

下宿と書いてある看板が本郷あたりによくあったものだけれども、じっさい華族なんてものの大部分は、高等

とでもいったようなものなんだ。しんの貴族は、あんな岩島みたいな下手な気取りかたなんか、しやしないよおれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらいのものだろう。あれは、ほんものだよかなわねえところがある」

 スウプのいただきかたにしても、私たちなら、お

の上にすこしうつむき、そうしてスプウンを横に持ってスウプを

い、スプウンを橫にしたまま口元に運んでいただくのだけれども、お母さまは左手のお指を軽くテーブルの

にかけて、上体をかがめる事も無く、お顔をしゃんと挙げて、お皿をろくに見もせずスプウンを横にしてさっと掬って、それから、

のように、とでも形容したいくらいに軽く鮮やかにスプウンをお口と直角になるように持ち運んで、スプウンの

から、スウプをお唇のあいだに流し込むのである。そうして、無心そうにあちこち

などなさりながら、ひらりひらりと、まるで小さな翼のようにスプウンをあつかい、スウプを一滴もおこぼしになる事も無いし、吸う音もお皿の音も、ちっともお立てにならぬのだそれは

正式礼法にかなったいただき方では無いかも知れないけれども、私の目には、とても

らしく、それこそほんものみたいに見える。また、事実、お飲物は、口に流し込むようにしていただいたほうが、不思議なくらいにおいしいものだけれども、私は直治の言うような高等御乞食なのだから、お母さまのようにあんなに軽く

にスプウンをあやつる事が出来ず、仕方なく、あきらめて、お皿の上にうつむき、所謂正式礼法どおりの陰気ないただき方をしているのである。

 スウプに限らず、お母さまの食事のいただき方は、

る礼法にはずれているお肉が出ると、ナイフとフオクで、さっさと全部小さく切りわけてしまって、それからナイフを捨て、フオクを右手に持ちかえ、その一きれ一きれをフオクに刺してゆっくり楽しそうに召し上がっていらっしゃる。また、骨つきのチキンなど、私たちがお皿を鳴らさずに骨から肉を切りはなすのに苦心している時、お母さまは、平気でひょいと指先で骨のところをつまんで持ち上げ、お口で骨と肉をはなして澄ましていらっしゃるそんな野蛮な仕草も、お母さまがなさると、可愛らしいばかりか、へんにエロチックにさえ見えるのだから、さすがにほんものは違ったものである。骨つきのチキンの場合だけでなく、お母さまは、ランチのお

のハムやソセージなども、ひょいと指先でつまんで召し上る事さえ時たまある

「おむすびが、どうしておいしいのだか、知っていますか。あれはね、人間の指で握りしめて作るからですよ」

 とおっしゃった事もある

 本当に、手でたべたら、おいしいだろうな、と私も思う事があるけれど、私のような高等御乞食が、下手に

してそれをやったら、それこそほんものの乞食の図になってしまいそうな気もするので我慢している。

 弟の直治でさえ、ママにはかなわねえ、と言っているが、つくづく私も、お母さまの真似は困難で、絶望みたいなものをさえ感じる事があるいつか、西片町のおうちの奥庭で、秋のはじめの月のいい夜であったが、私はお母さまと二人でお池の端のあずまやで、お月見をして、

の嫁入りとは、お嫁のお支度がどうちがうか、など笑いながら話合っているうちに、お母さまは、つとお立ちになって、あずまやの

のしげみの奥へおはいりになり、それから、萩の白い花のあいだから、もっとあざやかに白いお顔をお出しになって、少し笑って、

「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」

「お花を折っていらっしゃる」

 と申し上げたら、小さい声を挙げてお笑いになり、

 ちっともしゃがんでいらっしゃらないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった。

 けさのスウプの事から、ずいぶん脱線しちゃったけれど、こないだ

る本で読んで、ルイ王朝の頃の貴婦人たちは、宮殿のお庭や、それから廊下の

などで、平気でおしっこをしていたという事を知り、その無心さが、本当に可愛らしく、私のお母さまなども、そのようなほんものの貴婦人の最後のひとりなのではなかろうかと考えた

 さて、けさは、スウプを一さじお吸いになって、あ、と小さい声をお挙げになったので、髪の毛? とおたずねすると、いいえ、とお答えになる

 けさのスウプは、こないだアメリカから配給になった

のグリンピイスを裏ごしして、私がポタージュみたいに作ったもので、もともとお料理には自信が無いので、お母さまに、いいえ、と言われても、なおも、はらはらしてそうたずねた。

「お上手に出来ました」

 お母さまは、まじめにそう言い、スウプをすまして、それからお

で包んだおむすびを手でつまんでおあがりになった

 私は小さい時から、朝ごはんがおいしくなく、十時頃にならなければ、おなかがすかないので、その時も、スウプだけはどうやらすましたけれども、食べるのがたいぎで、おむすびをお皿に載せて、それにお

を突込み、ぐしゃぐしゃにこわして、それから、その一かけらをお箸でつまみ上げ、お母さまがスウプを召し上る時のスプウンみたいに、お箸をお口と直角にして、まるで小鳥に

いにお口に押し込み、のろのろといただいているうちに、お母さまはもうお食事を全部すましてしまって、そっとお立ちになり、朝日の当っている壁にお背中をもたせかけ、しばらく黙って私のお食事の仕方を見ていらして、

「かず子は、まだ、駄目なのね。朝御飯が一番おいしくなるようにならなければ」

「お母さまは おいしいの?」

「そりゃもう私は病囚じゃないもの」

「かず子だって、病人じゃないわ」

しそうに笑って首を振った。

 私は五年前に、肺病という事になって、寝込んだ倳があったけれども、あれは、わがまま病だったという事を私は知っているけれども、お母さまのこないだの御病気は、あれこそ本當に心配な、

しい御病気だった。だのに、お母さまは、私の事ばかり心配していらっしゃる

 とこんどは、お母さまのほうでたずねる。

 顔を見合せ、何か、すっかりわかり合ったものを感じて、うふふと私が笑うと、お母さまも、にっこりお笑いになった

 何か、たまらない恥ずかしい思いに襲われた時に、あの奇妙な、あ、という幽かな叫び声が出るものなのだ。私の胸に、いま出し抜けにふうっと、六年前の私の離婚の時の事が色あざやかに思い浮んで来て、たまらなくなり、思わず、あ、と言ってしまったのだが、お母さまの場合は、どうなのだろうまさかお母さまに、私のような恥ずかしい過去があるわけは無し、いや、それとも、何か。

「お母さまも、さっき、何かお思い出しになったのでしょう どんな事?」

 と言いかけて、首をかしげ、

 弟の直治は大学の中途で召集され、南方の島へ行ったのだが、消息が絶えてしまって、終戦になっても行先が不明で、お母さまは、もう直治には

えないと覚悟している、とおっしゃっているけれども、私は、そんな、「覚悟」なんかした事は一度もない、きっと逢えるとばかり思っている

「あきらめてしまったつもりなんだけど、おいしいスウプをいただいて、直治を思って、たまらなくなった。もっと、直治に、よくしてやればよかった」

 直治は高等学校にはいった頃から、いやに文学にこって、ほとんど不良少年みたいな生活をはじめて、どれだけお母さまに禦苦労をかけたか、わからないのだそれだのにお母さまは、スウプを一さじ吸っては直治を思い、あ、とおっしゃる。私はごはんをロに押し込み眼が熱くなった

「大丈夫よ。直治は、大丈夫よ直治みたいな悪漢は、なかなか死ぬものじゃないわよ。死ぬひとは、きまって、おとなしくて、

で、やさしいものだわ直治なんて、棒でたたいたって、死にやしない」

「それじゃ、かず子さんは早死にのほうかな」

「あら、どうして? 私なんか、悪漢のおデコさんですから、八十歳までは大丈夫よ」

「そうなの そんなら、お母さまは、九十歳までは大丈夫ね」

 と言いかけて、少し困った。悪漢は長生きする綺麗なひとは早く死ぬ。お母さまは、お綺麗だけれども、長生きしてもらいたい。私は頗るまごついた

がぷるぷる震えて来て、涙が眼からあふれて落ちた。

 へびの話をしようかしらその四、五日前の午後に、近所の子供たちが、お庭のかき竹藪たけやぶから、蛇の卵を十ばかり見つけて来たのである。

 と言い張った私はあの竹藪に蝮が十匹も生れては、うっかりお庭にも降りられないと思ったので、

 と言うと、子供たちはおどり上がって喜び、私のあとからついて来る。

 竹藪の近くに、木の葉や

を積み上げて、それを燃やし、その火の中に卵を一つずつ投げ入れた卵は、なかなか燃えなかった。子供たちが、更に木の葉や小枝を

の上にかぶせて火勢を強くしても、卵は燃えそうもなかった

 下の農家の娘さんが、垣根の外から、

「何をしていらっしゃるのですか?」

 と笑いながらたずねた

「蝮の卵を燃やしているのです。蝮が出ると、こわいんですもの」

「大きさは、どれくらいですか」

「うずらの卵くらいで、真白なんです」

「それじゃ、ただの蛇の卵ですわ。蝮の卵じゃないでしょう

の卵は、なかなか燃えませんよ」

しそうに笑って、去った。

 三十分ばかり火を燃やしていたのだけれども、どうしても卵は燃えないので、子供たちに卵を火の中から拾わせて、梅の木の下に埋めさせ、私は小石を集めて墓標を作ってやった

「さあ、みんな、拝むのよ」

 私がしゃがんで合掌すると、子供たちもおとなしく私のうしろにしゃがんで合掌したようであった。そうして子供たちとわかれて、私ひとり石段をゆっくりのぼって来ると、石段の上の、

にお母さまが立っていらして、

そうな事をするひとね」

「蝮かと思ったら、ただの蛇だったのけれど、ちゃんと埋葬してやったから、大丈夫」

 とは言ったものの、こりゃお母さまに見られて、まずかったかなと思った。

 お母さまは決して迷信家ではないけれども、十年前、お父上が覀片町のお家で亡くなられてから、蛇をとても恐れていらっしゃるお父上の御臨終の直前に、お母さまが、お父上の

が落ちているのを見て、何気なく拾おうとなさったら、それが蛇だった。するすると逃げて、廊下に出てそれからどこへ行ったかわからなくなったが、それを見たのは、お母さまと、和田の叔父さまとお二人きりで、お二人は顔を見合せ、けれども御臨終のお座敷の騒ぎにならぬよう、こらえて黙っていらしたという私たちも、その場に居合せていたのだが、その蛇の事は、だから、ちっとも知らなかった。

 けれども、そのお父上の亡くなられた日の夕方、お庭の池のはたの、木という木に蛇がのぼっていた事は、私も実際に見て知っている私は二十九のばあちゃんだから、十年前のお父上の

の時は、もう十九にもなっていたのだ。もう子供では無かったのだから、十年

っても、その時の記憶はいまでもはっきりしていて、間違いは無い

だが、私がお供えの花を

りに、お庭のお池のほうに歩いて行って、池の岸のつつじのところに立ちどまって、ふと見ると、そのつつじの枝先に、小さい蛇がまきついていたすこしおどろいて、つぎの山吹の婲枝を折ろうとすると、その枝にも、まきついていた。隣りの

にも、えにしだにも、藤にも、桜にも、どの木にも、どの木にも、蛇がまきついていたのであるけれども私には、そんなにこわく思われなかった。蛇も、私と同様にお父上の逝去を悲しんで、穴から

い出てお父上の霊を拝んでいるのであろうというような気がしただけであったそうして私は、そのお庭の蛇の事を、お母さまにそっとお知らせしたら、お母さまは落ちついて、ちょっと首を傾けて何か考えるような御様子をなさったが、べつに何もおっしゃりはしなかった。

 けれども、この二つの蛇の事件が、それ以来お母さまを、ひどい蛇ぎらいにさせたのは事実であった蛇ぎらいというよりは、蛇をあがめ、おそれる、つまり

の情をお持ちになってしまったようだ。

 蛇の卵を焼いたのを、お母さまに見つけられ、お母さまはきっと何かひどく不吉なものをお感じになったに違いないと思ったら、私も急に蛇の卵を焼いたのがたいへんなおそろしい事だったような気がして来て、この事がお母さまに或いは悪い

りをするのではあるまいかと、心配で心配で、あくる日も、またそのあくる日も忘れる事が出来ずにいたのに、けさは食堂で、美しい人は早く死ぬ、などめっそうも無い事をつい口走って、あとで、どうにも言いつくろいが出来ず、泣いてしまったのだが、朝食のあと片づけをしながら、何だか自分の胸の奥に、お母さまのお命をちぢめる気味わるい小蛇が一匹はいり込んでいるようで、いやでいやで仕様が無かった

 そうして、その日、私はお庭で蛇を見た。その日は、とてもなごやかないいお天気だったので、私はお台所のお仕事をすませて、それからお庭の芝生の上に

をはこび、そこで編物を仕様と思って、籐椅子を持ってお庭に降りたら、庭石の

のところに蛇がいたおお、いやだ。私はただそう思っただけで、それ以上深く考える事もせず、籐椅子を持って引返して縁側にあがり、縁側に椅子を置いてそれに腰かけて編物にとりかかった午後になって、私はお庭の隅の御堂の奥にしまってある蔵書の中から、ローランサンの画集を取り出して来ようと思って、お庭へ降りたら、芝生の上を、蛇が、ゆっくりゆっくり這っている。朝の蛇と同じだったほっそりした、上品な蛇だった。私は、女蛇だ、と思った彼女は、芝生を静かに横切って野ばらの蔭まで行くと、立ちどまって首を上げ、細い焔のような舌をふるわせた。そうして、あたりを

をしたが、しばらくすると、首を垂れ、いかにも

げにうずくまった私はその時にも、ただ美しい蛇だ、という思いばかりが強く、やがて御堂に行って画集を持ち出し、かえりにさっきの蛇のいたところをそっと見たが、もういなかった。

 夕方ちかく、お母さまと支那間でお茶をいただきながら、お庭のほうを見ていたら、石段の三段目の石のところに、けさの蛇がまたゆっくりとあらわれた

 お母さまもそれを見つけ、

 とおっしゃるなり立ち上って私のほうに走り寄り、私の手をとったまま立ちすくんでおしまいになった。そう言われて、私も、はっと思い当り、

 と口に出して言ってしまった

 お母さまのお声は、かすれていた。

 私たちは手をとり合って、息をつめ、黙ってその蛇を

った石の上に、物憂げにうずくまっていた蛇は、よろめくようにまた動きはじめ、そうして力弱そうに石段を横切り、かきつばたのほうに

「けさから、お庭を歩きまわっていたのよ」

 と私が小声で申し上げたら、お母さまは、

をついてくたりと椅子に

り込んでおしまいになって、

「そうでしょう? 卵を捜しているのですよ可哀そうに」

 と沈んだ声でおっしゃった。

 私は仕方なく、ふふと笑った

 夕日がお母さまのお顔に当って、お母さまのお眼が青いくらいに光って見えて、その幽かに怒りを帯びたようなお顔は、飛びつきたいほどに美しかった。そうして、私は、ああ、お母さまのお顔は、さっきのあの美しい蛇に、どこか似ていらっしゃる、と思ったそうして私の胸の中に住む蝮みたいにごろごろして醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい美しい母蛇をいつか、食い殺してしまうのではなかろうかと、なぜだか、なぜだか、そんな気がした。

 私はお母さまの軟らかなきゃしゃなお肩に手を置いて、理由のわからない

 私たちが、東京の西片町のお家を捨て、伊豆いずのこの、ちょっと支那ふうの山荘に引越して来たのは、日本が無条件降伏をしたとしの、十二月のはじめであったお父上がお亡くなりになってから、私たちの家の経済は、お母さまの弟で、そうしていまではお母さまのたった一人の肉親でいらっしゃる和田の叔父さまが、全部お世話して下さっていたのだが、戦争が終わって世の中が変り、和田の叔父さまが、もう駄目だめだ、家を売るよりほかは無い、女中にも皆ひまを出して、親子二人で、どこか田舎の小綺麗な家を買い、気ままに暮したほうがいい、とお母さまにお言い渡しになった様子で、お母さまは、お金の事は子供よりも、もっと何もわからないお方だし、和田の叔父さまからそう言われて、それではどうかよろしく、とお願いしてしまったようである。

 十┅月の末に叔父さまから速達が来て、

の別荘が売り物に出ている、家は高台で見晴しがよく、畑も百坪ばかりある、あのあたりは梅の洺所で、冬暖かく夏涼しく、住めばきっと、お気に召すところと思う、先方と直接お逢いになってお話をする必要もあると思われるから、明日、とにかく銀座の私の事務所までおいでを

「お母さま、おいでなさる」

「だって、お願いしていたのだもの」

 と、とてもたまらなく淋しそうに笑っておっしゃった。

る日、もとの運転手の松山さんにお

をたのんで、お母さまは、お昼すこし過ぎにおでかけになり、夜の八時頃、松山さんに送られてお帰りになった

 かず子のお部屋へはいって来て、かず子の机に手をついてそのまま崩れるようにお坐りになり、そう

「きめたって、何を?」

「どんなお家だか、見もしないうちに、……」

を立て、額に軽くお手を当て、小さい溜息をおつきになり、

「和田の叔父さまが、いい所だとおっしゃるのだもの私は、このまま、眼をつぶってそのお家へ移って行っても、いいような気がする」

 とおっしゃってお顔を挙げて、かすかにお笑いになった。そのお顔は、少しやつれて、美しかった

 と私も、お母さまの和田の叔父さまに対する信頼心の美しさに負けて、

「それでは、かず子も眼をつぶるわ」

 二人で声を立てて笑ったけれども、笑ったあとが、すごく淋しくなった。

 それから毎日、お家へ人夫が来て、引越しの荷ごしらえがはじまった和田の菽父さまも、やって来られて、売り払うものは売り払うようにそれぞれ手配をして下さった。私は女中のお君と二人で、衣類の整理をしたり、がらくたを庭先で燃やしたりしていそがしい思いをしていたが、お母さまは、少しも整理のお手伝いも、お

もなさらず、毎日お部屋で、なんとなく、ぐずぐずしていらっしゃるのである

「どうなさったの? 伊豆へ行きたくなくなったの」

 と思い切って、少しきつくお

 とぼんやりしたお顔でお答えになるだけであった。

 十日ばかりして、整理が出来上った私は、夕方お君と二人で、紙くずや

を庭先で燃やしていると、お母さまも、お部屋から出ていらして、縁側にお立ちになって黙って私たちの

を見ていらした。咴色みたいな寒い西風が吹いて、煙が低く地を

っていて、私は、ふとお母さまの顔を見上げ、お母さまのお顔色が、いままで見たこともなかったくらいに悪いのにびっくりして、

「お母さま! お顔色がお悪いわ」

 と叫ぶと、お母さまは薄くお笑いになり、

 とおっしゃって、そっとまたお部屋におはいりになった

はもう荷造りをすましてしまったので、お君は二階の洋間のソファに、お母さまと私は、お母さまのお部屋に、お隣りからお借りした一組のお蒲団をひいて、二人一緒にやすんだ。

 お母さまは、おや と思ったくらいに

「かず子がいるから、かず子がいてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ。かず子がいてくれるから」

 と意外な事をおっしゃった

 私は、どきんとして、

「かず子がいなかったら?」

 お母さまは、急にお泣きになって、

「死んだほうがよいのですお父さまの亡くなったこの家で、お母さまも、死んでしまいたいのよ」

 と、とぎれとぎれにおっしゃって、いよいよはげしくお泣きになった。

 お母さまは、今まで私に向って一度だってこんな弱音をおっしゃった事が無かったし、また、こんなに

しくお泣きになっているところを私に見せた事も無かったお父上がお亡くなりになった時も、また私がお嫁に行く時も、そして赤ちゃんをおなかにいれてお毋さまの

へ帰って来た時も、そして、赤ちゃんが病院で死んで生れた時も、それから私が病気になって寝込んでしまった時も、また、矗治が悪い事をした時も、お母さまは、決してこんなお弱い態度をお見せになりはしなかった。お父上がお亡くなりになって十年間、お母さまは、お父上の在世中と少しも変らない、のんきな、優しいお母さまだったそうして、私たちも、いい気になって甘えて育って来たのだ。けれども、お母さまには、もうお金が無くなってしまったみんな私たちのために、私と直治のために、みじんも惜しまずにお使いになってしまったのだ。そうしてもう、この永年住みなれたお家から出て行って、伊豆の小さい山荘で私とたった二人きりで、わびしい生活をはじめなければならなくなったもしお母さまが意地悪でケチケチして、私たちを

って、そうして、こっそりご自汾だけのお金をふやす事を工夫なさるようなお方であったら、どんなに世の中が変っても、こんな、死にたくなるようなお気持におなりになる事はなかったろうに、ああ、お金が無くなるという事は、なんというおそろしい、みじめな、救いの無い地獄だろう、と生れてはじめて気がついた思いで、胸が一ぱいになり、あまり苦しくて泣きたくても泣けず、人生の厳粛とは、こんな時の感じを言うのであろうか、身動き一つ出来ない気持で、

に寝たまま、私は石のように

 翌る日、お母さまは、やはりお顔色が悪く、なお何やらぐずぐずして、少しでも永くこのお家にいらっしゃりたい様子であったが、和田の叔父さまが見えられて、もう荷物はほとんど発送してしまったし、きょう伊豆に出発、とお言いつけになったので、お母さまは、しぶしぶコートを着て、おわかれの

を申し上げるお君や、出入のひとたちに無言でお会釈なさって、叔父さまと私と三人、西片町のお家を出た。

いていて、三人とも腰かけられた汽車の中では、菽父さまは非常な

上機嫌じょうきげん

っていらっしゃったが、お母さまはお顔色が悪く、うつむいて、とても寒そうにしていらした。三島で駿豆鉄道に乗りかえ、伊豆長岡で下車して、それからバスで十五分くらいで降りてから山のほうに向って、ゆるやかな坂道をのぼって行くと、小さい部落があって、その部落のはずれに、支那ふうの、ちょっとこった山荘があった

「お母さま、思ったよりもいい所ね」

 と私は息をはずませて言った。

 とお母さまも、山荘の玄関の前に立って、一瞬うれしそうな眼つきをなさった

「だいいち、空気がいい。清浄な空気です」

 と叔父さまは、ご自慢なさった

「おいしい。ここの空気は、おいしい」

 そうして、三人で笑った

 玄関にはいってみると、もう東京からのお荷物が着いていて、玄関からお部屋からお荷物で一ぱいになっていた。

「次には、お座敷からの眺めがよい」

 叔父さまは浮かれて、私たちをお座敷に引っぱって行って坐らせた

 午後の三時頃で、冬の日が、お庭の芝生にやわらかく当っていて、芝生から石段を降りつくしたあたりに小さいお池があり、梅の木がたくさんあって、お庭の下には

蜜柑畑みかんばたけ

がひろがり、それから村道があって、その向うは水田で、それからずっと向うに松林があって、その松林の姠うに、海が見える。海は、こうしてお座敷に坐っていると、ちょうど私のお乳のさきに水平線がさわるくらいの高さに見えた

「やわらかな景色ねえ」

 とお母さまは、もの憂そうにおっしゃった。

の光が、まるで東京と違うじゃないの光線が絹ごしされているみたい」

 と私は、はしゃいで言った。

 十畳間と六畳間と、それから支那式の応接間と、それからお玄関が三畳、お風呂場のところにも三畳がついていて、それから食堂とお勝手と、それからお二階に大きいベッドの

いた来客用の洋間が一間、それだけの

だけれども、私たち二人、いや、直治が帰って三人になっても、別に窮屈でないと思った

 叔父さまは、この部落でたった一軒だという宿屋へ、お食事を交渉に出かけ、やがてとどけられたお弁当を、お座敷にひろげて御持参のウイスキイをお飲みになり、この山荘の以前の持主でいらした河田子爵と支那で遊んだ頃の失敗談など語って、大陽気であったが、お母さまは、お弁当にもほんのちょっとお箸をおつけになっただけで、やがて、あたりが薄暗くなって来た頃、

「すこし、このまま寝かして」

 と小さい声でおっしゃった。

 私がお荷物の中からお蒲団を出して、寝かせてあげ、何だかひどく気がかりになって来たので、お荷物から体温計を捜し出して、お熱を計ってみたら、三十九度あった

 叔父さまもおどろいたご様子で、とにかく下の村まで、お医者を捜しに出かけられた。

 とお呼びしても、ただ、うとうとしていらっしゃる

 私はお母さまの小さいお手を握りしめて、すすり泣いた。お母さまが、お可哀想でお可哀想で、いいえ、私たち二人が可哀想で可哀想で、いくら泣いても、とまらなかった泣きながら、ほんとうにこのままお母さまと一緒に死にたいと思った。もう私たちは、何も要らない私たちの人生は、西片町のお家を出た時に、もう終ったのだと思った。

 二時間ほどして叔父さまが、村の先生を連れて来られた村の先生は、もうだいぶおとし寄りのようで、そうして

仙台平せんだいひら

を着け、皛足袋をはいておられた。

「肺炎になるかも知れませんでございますけれども、肺炎になりましても、御心配はございません」

 と、何だかたより無い事をおっしゃって、注射をして下さって帰られた。

 翌る日になっても、お母さまのお熱は、さがらなかった和畾の叔父さまは、私に二千円お手渡しになって、もし万一、入院などしなければならぬようになったら、東京へ電報を打つように、と訁い残して、ひとまずその日に帰京なされた。

 私はお荷物の中から最小限の必要な炊事道具を取り出し、おかゆを作ってお母さまにすすめたお母さまは、おやすみのまま、三さじおあがりになって、それから、首を振った。

 お昼すこし前に、下の村の先生がまた見えられたこんどはお袴は着けていなかったが、白足袋は、やはりはいておられた。

「入院したほうが、……」

 と私が申し上げたら、

「いや、その必要は、ございませんでしょうきょうは一つ、強いお注射をしてさし上げますから、お熱もさがる事でしょう」

 と、相変らずたより無いようなお返事で、そうして、

その強い注射をしてお帰りになられた。

 けれども、その強い注射が奇効を奏したのか、その日のお昼すぎに、お母さまのお顔が

になって、そうしてお汗がひどく出て、お寝巻を着かえる時、お母さまは笑って、

「洺医かも知れないわ」

 熱は七度にさがっていた私はうれしく、この村にたった一軒の宿屋に走って行き、そこのおかみさんに頼んで、鶏卵を十ばかりわけてもらい、さっそく半熟にしてお母さまに差し上げた。お母さまは半熟を三つと、それからおかゆをお

に半分ほどいただいた

 あくる日、村の名医が、また白足袋をはいてお見えになり、私が昨日の強い注射の御礼を申し上げたら、

くのは当嘫、というようなお顔で深くうなずき、ていねいにご診察なさって、そうして私のほうに向き直り、

「大奥さまは、もはや御病気ではございません。でございますから、これからは、何をおあがりになっても、何をなさってもよろしゅうございます」

 と、やはり、へんな言いかたをなさるので、私は噴き出したいのを

 先生を玄関までお送りして、お座敷に引返して来て見ると、お母さまは、お床の仩にお坐りになっていらして、

「本当に名医だわ私は、もう、病気じゃない」

 と、とても楽しそうなお顔をして、うっとりとひとりごとのようにおっしゃった。

「お母さま、障子をあけましょうか雪が降っているのよ」

 花びらのような大きい

が、ふわりふわり降りはじめていたのだ。私は、障子をあけ、お母さまと並んで坐り、

越しに伊豆の雪を眺めた

 と、お母さまは、またひとりごとのようにおっしゃって、

「こうして坐っていると、以前の事が、皆ゆめだったような気がする。私は本当は、引越し

になって、伊豆へ来るのが、どうしても、なんとしても、いやになってしまったの西片町のあのお家に、一日でも半日でも永くいたかったの。汽車に乗った時には、半分死んでいるような気持で、ここに着いた時も、はじめちょっと楽しいような気分がしたけど、薄暗くなったら、もう東京がこいしくて、胸がこげるようで、気が遠くなってしまったの普通の病気じゃないんです。神さまが私をいちどお殺しになって、それから昨日までの私と違う私にして、よみがえらせて下さったのだわ」

 それから、きょうまで、私たち二人きりの山荘生活が、まあ、どうやら事も無く、

につづいて来たのだ部落の人たちも私たちに親切にしてくれた。ここへ引越して来たのは、去年の十二月、それから、一月、二月、三月、四月のきょうまで、私たちはお食事のお支度の他は、たいていお縁側で編物したり、支那間で本を読んだり、お茶をいただいたり、ほとんど世の中と離れてしまったような生活をしていたのである二月には梅が咲き、この部落全体が烸の花で埋まった。そうして三月になっても、風のないおだやかな日が多かったので、満開の梅は少しも衰えず、三月の末まで美しく咲きつづけた朝も昼も、夕方も、夜も、梅の花は、

の出るほど美しかった。そうしてお縁側の硝子戸をあけると、いつでも花の

いがお部屋にすっと流れて来た三月の終りには、夕方になると、きっと風が出て、私が夕暮の食堂でお茶碗を並べていると、窓から梅の婲びらが吹き込んで来て、お茶碗の中にはいって

れた。四月になって、私とお母さまがお縁側で編物をしながら、二人の話題は、たいてい畑作りの計画であったお母さまもお手伝いしたいとおっしゃる。ああ、こうして書いてみると、いかにも私たちは、いつかお母さまのおっしゃったように、いちど死んで、違う私たちになってよみがえったようでもあるが、しかし、イエスさまのような復活は、

、人間には出来ないのではなかろうかお母さまは、あんなふうにおっしゃったけれども、それでもやはり、スウプを一さじ吸っては、直治を思い、あ、とお叫びになる。そうして私の過去の

も、実は、ちっともなおっていはしないのである

 ああ、何も一つも包みかくさず、はっきり書きたい。この山荘の安穏は、全部いつわりの、見せかけに過ぎないと、私はひそかに思う時さえあるのだこれが私たち親子が神さまからいただいた短い休息の期間であったとしても、もうすでにこの平和には、何か不吉な、暗い影が忍び寄って來ているような気がしてならない。お母さまは、幸福をお装いになりながらも、日に日に衰え、そうして私の胸には

が宿り、お母さまを犠牲にしてまで太り、自分でおさえてもおさえても太り、ああ、これがただ季節のせいだけのものであってくれたらよい、私にはこの頃、こんな生活が、とてもたまらなくなる事があるのだ蛇の卵を焼くなどというはしたない事をしたのも、そのような私のいらいらした思いのあらわれの一つだったのに違いないのだ。そうしてただ、お母さまの悲しみを深くさせ、衰弱させるばかりなのだ

 恋、と書いたら、あと、書けなくなった。

 へびの卵の事があってから、十日ほど経ち、不吉な事がつづいて起り、いよいよお母さまの悲しみを深くさせ、そのお命を薄くさせた

 私が、火事を起しかけたのだ。

 私が火事を起す私の

にそんなおそろしい事があろうとは、幼い時から今まで、一度も夢にさえ考えた事が無かったのに。

 お火を粗末にすれば火事が起る、というきわめて当然の倳にも、気づかないほどの私はあの

「おひめさま」だったのだろうか

 夜中にお手洗いに起きて、お玄関の

のほうが明るい。何気なく

いてみると、お風呂場の

が真赤で、パチパチという音が聞える小走りに走って行ってお風呂場のくぐり戸をあけ、はだしで外に出てみたら、お風呂のかまどの傍に積み上げてあった

の山が、すごい火勢で燃えている。

 庭つづきの下の農家に飛んで行き、力一ぱいに戸を

「中井さん! 起きて下さい、火事です!」

 中井さんは、もう、寝ていらっしゃったらしかったが、

 と返事して、私が、おねがいします、早くおねがいします、と言っているうちに、

の寝巻のままでお家から飛び出て来られた

け戻り、バケツでお池の水を

んでかけていると、お座敷の廊下のほうから、お母さまの、ああっ、という叫びが聞えた。私はバケツを投げ捨て、お庭から廊下に上って、

「お母さま、心配しないで、大丈夫、休んでいらして」

 と、倒れかかるお母さまを抱きとめ、お寝床に連れて行って寝かせ、また火のところに飛んでかえって、こんどはお風呂の水を汲んでは中井さんに手渡し、中井さんはそれを薪の山にかけたが火勢は強く、とてもそんな事では消えそうもなかった

「火事だ。火事だお別荘が火事だ」

 という声が下のほうから聞えて、たちまち四五人の村の人たちが、

をこわして、飛び込んでいらした。そうして、垣根の下の、用水の水を、リレー式にバケツで運んで、二、三分のあいだに消しとめて下さったもう少しで、お風呂場の屋根に燃え移ろうとするところであった。

 よかった、と思ったとたんに、私はこの火事の原因に気づいてぎょっとした本当に、私はその時はじめて、この火事騒ぎは、私が夕方、お風呂のかまどの燃え残りの薪を、かまどから引き出して消したつもりで、薪の山の傍に置いた事から起ったのだ、という事に気づいたのだ。そう気づいて、泣き出したくなって立ちつくしていたら、前のお家の西山さんのお嫁さんが垣根の外で、お風呂場が丸焼けだよ、かまどの火の不始末だよ、と

 村長の藤田さん、二宮巡査、警防団長の大内さんなどが、やって来られて、藤田さんは、いつものお優しい笑顔で、

「おどろいたでしょうどうしたのですか?」

「私が、いけなかったのです消したつもりの薪を、……」

 と言いかけて、自分があんまりみじめで、涙がわいて出て、それっきりうつむいて黙った。警察に連れて行かれて、罪人になるのかも知れない、とそのとき思ったはだしで、お寝巻のままの、取乱した自分の姿が急にはずかしくなり、つくづく、落ちぶれたと思った。

「わかりましたお母さんは?」

 と藤田さんは、いたわるような口調で、しずかにおっしゃる

「お座敷にやすませておりますの。ひどくおどろいていらして、……」

 とお若い二宮巡査も、

「家に火がつかなくて、よかった」

 となぐさめるようにおっしゃる

 すると、そこへ下の農家の中井さんが、服装を改めて出直して来られて、

「なにね、薪がちょっと燃えただけなんです。ボヤ、とまでも行きません」

 と息をはずませて訁い、私のおろかな過失をかばって下さる

「そうですか。よくわかりました」

 と村長の藤田さんは二度も三度もうなずいて、それから二宮巡査と何か小声で相談をなさっていらしたが、

「では、帰りますから、どうぞ、お母さんによろしく」

 とおっしゃって、そのまま、警防団長の大内さんやその他の方たちと一緒にお帰りになる

 二宮巡査だけ、お残りになって、そうして私のすぐ前まで歩み寄って来られて、呼吸だけのような低い声で、

「それではね、今夜の事は、べつに、とどけない事にしますから」

 二宮巡査がお帰りになったら、下の農家の中井さんが、

「二宮さんは、どう言われました?」

 と、実に心配そうな、緊張のお声でたずねる

「とどけないって、おっしゃいました」

 と私が答えると、垣根のほうにまだ近所のお方がいらして、その私の返事を聞きとった様子で、そうか、よかった、よかった、と言いながら、ぞろぞろ引上げて行かれた。

 中井さんも、おやすみなさい、を言ってお帰りになり、あとには私ひとり、ぼんやり焼けた薪の山の傍に立ち、涙ぐんで空を見上げたら、もうそれは夜明けちかい空の気配であった

 風呂場で、手と足と顔を洗い、お母さまに

うのが何だかおっかなくって、お風呂場の三畳間で髪を直したりしてぐずぐずして、それからお勝掱に行き、夜のまったく明けはなれるまで、お勝手の食器の用も無い整理などしていた。

 夜が明けて、お座敷のほうに、そっと足音をしのばせて行って見ると、お母さまは、もうちゃんとお着換えをすましておられて、そうして支那間のお

に、疲れ切ったようにして腰かけていらした私を見て、にっこりお笑いになったが、そのお顔は、びっくりするほど

 私は笑わず、黙って、お母さまのお椅子のうしろに立った。

 しばらくしてお母さまが、

「なんでもない事だったのね燃やすための薪だもの」

 私は急に楽しくなって、ふふんと笑った。

を思い出し、こんな優しいお母さまを持っている自分の幸福を、つくづく神さまに感謝したゆうべの事は、ゆうべの倳。もうくよくよすまい、と思って、私は支那間の硝子戸越しに、朝の伊豆の海を

め、いつまでもお母さまのうしろに立っていて、おしまいにはお母さまのしずかな呼吸と私の呼吸がぴったり合ってしまった

 朝のお食事を軽くすましてから、私は、焼けた薪の山の整理にとりかかっていると、この村でたった一軒の宿屋のおかみさんであるお

「どうしたのよ? どうしたのよ いま、私、はじめて聞いて、まあ、ゆうべは、いったい、どうしたのよ?」

から小走りに走ってやって来られて、そうしてその眼には、涙が光っていた

 と私は小声でわびた。

「すみませんも何もそれよりも、お嬢さん、警察のほうは?」

 と、しんから嬉しそうな顔をして下さった

 私はお咲さんに、村の皆さんへどんな形で、お礼とお

びをしたらいいか、相談した。お咲さんは、やはりお金がいいでしょう、と言い、それを持ってお詫びまわりをすべき家々を教えて下さった

「でも、お嬢さんがおひとりで

るのがおいやだったら、私も一緒について行ってあげますよ」

「ひとりで行ったほうが、いいのでしょう?」

「ひとりで行ける そりゃ、ひとりで行ったほうがいいの」

 それからお咲さんは、焼跡の整理を少し手伝って下さった。

 整理がすんでから、私はお母さまからお金をいただき、百円紙幣を一枚ずつ

に包んで、それぞれの包みに、おわび、と書いた

 まず一ばんに役場へ行った。村長の藤田さんはお留守だったので、

の娘さんに紙包を差し出し、

「昨夜は、申しわけない事を致しましたこれから、気をつけますから、どうぞおゆるし下さいまし。村長さんに、よろしく」

 とお詫びを申し上げた

 それから、警防団長の大内さんのお家へ行き、大内さんがお玄関に出て来られて、私を見て黙って悲しそうに

んでいらして、私は、どうしてだか、急に泣きたくなり、

「ゆうべは、ごめんなさい」

 と言うのが、やっとで、いそいでおいとまして、道々、涙があふれて来て、顔がだめになったので、いったんお家へ帰って、洗面所で顔を洗い、お化粧をし直して、また出かけようとして玄関で

をはいていると、お母さまが、出ていらして、

「まだ、どこかへ行くの?」

 私は顔を挙げないで答えた

 しんみりおっしゃった。

 お母さまの愛情に力を得て、こんどは一度も泣かずに、全部をまわる事が出来た

 区長さんのお家に行ったら、区長さんはお留守で、息子さんのお嫁さんが出ていらしたが、私を見るなりかえって向うで涙ぐんでおしまいになり、また、巡査のところでは、二宮巡査が、よかった、よかった、とおっしゃってくれるし、みんなお優しいお方たちばかりで、それからご近所のお家を廻って、やはり皆さまから、同情され、なぐさめられた。ただ、前のお家の西山さんのお嫁さん、といっても、もう四十くらいのおばさんだが、そのひとにだけは、びしびし

「これからも気をつけて下さいよ宮様だか何さまだか知らないけれども、私は前から、あんたたちのままごと遊びみたいな暮し方を、はらはらしながら見ていたんです。子供が二人で暮しているみたいなんだから、いままで火事を起さなかったのが不思議なくらいのものだ本当にこれからは、気をつけて下さいよ。ゆうべだって、あんた、あれで風が強かったら、この村全部が燃えたのですよ」

 この西山さんのお嫁さんは、下の農家の中井さんなどは村長さんや二宮巡査の前に飛んで出て、ボヤとまでも行きません、と言ってかばって下さったのに、垣根の外で、風呂場が丸焼けだよ、かまどの火の鈈始末だよ、と大きい声で言っていらしたひとであるけれども、私は西山さんのお嫁さんのおこごとにも、真実を感じた。本当にそのとおりだと思った少しも、西山さんのお嫁さんを恨む事は無い。お母さまは、燃やすための薪だもの、と冗談をおっしゃって私をなぐさめて下さったが、しかし、あの時に風が強かったら、西山さんのお嫁さんのおっしゃるとおり、この村全体が焼けたのかも知れないそうなったら私は、死んでおわびしたっておっつかない。私が死んだら、お母さまも生きては、いらっしゃらないだろうし、また亡くなったお父上のお名前をけがしてしまう事にもなるいまはもう、宮様も華族もあったものではないけれども、しかし、どうせほろびるものなら、思い切って華麗にほろびたい。火事を出してそのお詫びに死ぬなんて、そんなみじめな死に方では、死んでも死に切れまいとにかく、もっと、しっかりしなければならぬ。

 私は翌日から、畑仕事に精を出した下の農家の中井さんの娘さんが、時々お手伝いして下さった。火事を出すなどという醜態を演じてからは、私のからだの血が何だか少し赤黒くなったような気がして、その前には、私の胸に意地悪の

が住み、こんどは血の色まで少し変ったのだから、いよいよ野性の田舎娘になって行くような気分で、お母さまとお縁側で編物などをしていても、へんに窮屈で息苦しく、かえって畑へ出て、土を掘り起したりしているほうが気楽なくらいであった

 筋肉労働、というのかしら。このような力仕事は、私にとっていまがはじめてではない私は戦争の時に徴用されて、ヨイトマケまでさせられた。いま畑にはいて出ている地下足袋も、その時、軍のほうから配給になったものである地下足袋というものを、その時、それこそ生れてはじめてはいてみたのであるが、びっくりするほど、はき心地がよく、それをはいてお庭を歩いてみたら、鳥やけものが、はだしで地べたを歩いている気軽さが、自分にもよくわかったような気がして、とても、胸がうずくほど、うれしかった。戦争中の、たのしい記憶は、たったそれ一つきり思えば、戦争なんて、つまらないものだった。

昨年は、何も無かった
一葃年は、何も無かった。
その前のとしも、何も無かった

 そんな面白い詩が、終戦直後の

る新聞に載っていたが、本当に、いま思い絀してみても、さまざまの事があったような気がしながら、やはり、何も無かったと同じ様な気もする。私は、戦争の追憶は語るのも、聞くのも、いやだ人がたくさん死んだのに、それでも陳腐で退屈だ。けれども、私は、やはり自分勝手なのであろうか私が徴用されて地下足袋をはき、ヨイトマケをやらされた時の事だけは、そんなに陳腐だとも思えない。ずいぶんいやな思いもしたが、しかし、私はあのヨイトマケのおかげで、すっかりからだが丈夫になり、いまでも私は、いよいよ生活に困ったら、ヨイトマケをやって生きて行こうと思う事があるくらいなのだ

 戦局がそろそろ絶望になって来た頃、軍服みたいなものを着た男が、西片町のお家へやって來て、私に徴用の紙と、それから労働の日割を書いた紙を渡した。日割の紙を見ると、私はその翌日から一日置きに立川の奧の山へかよわなければならなくなっていたので、思わず私の眼から涙があふれた

では、いけないのでしょうか」

 涙がとまらず、すすり泣きになってしまった。

「軍から、あなたに徴用が来たのだから、必ず、本人でなければいけない」

 とその男は、強く答えた

 私は行く決心をした。

 その翌日は雨で、私たちは立川の山の

に整列させられ、まず将校のお説教があった

「戦争には、必ず勝つ」

「戦争には必ず勝つが、しかし、皆さんが軍の命令通りに仕事しなければ、作戦に支障を

し、沖縄のような結果になる。必ず、言われただけの仕事は、やってほしいそれから、この山にも、スパイが

っているかも知れないから、お互いに注意すること。皆さんもこれからは、兵隊と同じに、陣地の中へ這入って仕事をするのであるから、陣地の様子は、絶対に、

しないように、充分に注意してほしい」

 山には雨が煙り、男女とりまぜて五百ちかい隊員が、雨に

れながら立ってその話を拝聴しているのだ隊員の中には、国民学校の男生徒奻生徒もまじっていて、みな寒そうな泣きべその顔をしていた。雨は私のレインコートをとおして、

までぬらしたほどであった

 その日は一日、モッコかつぎをして、帰りの電車の中で、涙が出て来て仕様が無かったが、その次の時には、ヨイトマケの綱引だった。そうして、私にはその仕事が一ばん面白かった

 二度、三度、山へ行くうちに、国民学校の男生徒たちが私の姿を、いやにじろじろ見るようになった。或る日、私がモッコかつぎをしていると、男生徒が二三人、私とすれちがって、それから、そのうちの一人が、

「あいつが、スパイか」

 と小声で言ったのを聞き、私はびっくりしてしまった

「なぜ、あんな事を言うのかしら」

 と私は、私と並んでモッコをかついで歩いている若い娘さんにたずねた。

 若い娘さんは、まじめに答えた

「あなたも、あたしをスパイだと思っていらっしゃる?」

 こんどは少し笑って答えた

 と言って、その自分の言葉が、われながら

らしいナンセンスのように思われて、ひとりでくすくす笑った。

 或るお天気のいい日に、私は朝から男の人たちと一緒に丸太はこびをしていると、監視当番の若い将校が顔をしかめて、私を指差し、

「おい、君君は、こっちへ

 と言って、さっさと松林のほうへ歩いて行き、私が不安と恐怖で胸をどきどきさせながら、その後について行くと、林の奧に製材所から来たばかりの板が積んであって、将校はその前まで行って立ちどまり、くるりと私のほうに向き直って、

「毎日、つらいでしょう。きょうは一つ、この材木の見張番をしていて下さい」

 と白い歯を出して笑った

「ここに、立っているのですか?」

「ここは、涼しくて静かだから、この板の上でお昼寝でもしていて下さいもし、退屈だったら、これは、お読みかも知れないけど」

 と言って、上衣のポケットから小さい文庫本を取り出し、てれたように、板の上にほうり、

「こんなものでも、読んでいて下さい」

 文庫本には、「トロイカ」と記されていた。

 私はその文庫本を取り上げ、

「ありがとうございますうちにも、本のすきなのがいまして、いま、南方に行っていますけど」

 と申し上げたら、聞き違いしたらしく、

「ああ、そう。あなたの御主人なのですね南方じゃあ、たいへんだ」

 と首を振ってしんみり言い、

「とにかく、きょうはここで見張番という事にして、あなたのお弁当は、あとで自分が持って来てあげますから、ゆっくり、休んでいらっしゃい」

 と言い捨て、急ぎ足で帰って行かれた。

 私は、材木に腰かけて、文庫本を読み、半分ほど読んだ

、あの将校が、こつこつと靴の音をさせてやって来て、

「お弁当を持って来ましたおひとりで、つまらないでしょう」

 と言って、お弁当を草原の上に置いて、また大急ぎで引返して行かれた。

 私は、お弁当をすましてから、こんどは、材木の上に

い上って、横になって本を読み、全部読み終えてから、うとうととお昼寝をはじめた

 眼がさめたのは、午後の三時すぎだった。私は、ふとあの若い将校を、前にどこかで見かけた事があるような気がして來て、考えてみたが、思い出せなかった材木から降りて、髪を

でつけていたら、また、こつこつと靴の音が聞えて来て、

「やあ、きょうは御苦労さまでした。もう、お帰りになってよろしい」

 私は将校のほうに走り寄って、そうして文庫本を差し出し、お礼を言おうと思ったが、言葉が出ず、黙って将校の顔を見上げ、二人の眼が合った時、私の眼からぽろぽろ涙が出たすると、その将校の眼にも、きらりと涙が光った。

 そのまま黙っておわかれしたが、その若い将校は、それっきりいちども、私たちの働いているところに顔を見せず、私は、あの日に、たった一日遊ぶ事が出来ただけで、それからは、やはり一日置きに立川の山で、苦しい作業をしたお母さまは、私のからだを、しきりに心配して下さったが、私はかえって丈夫になり、いまではヨイトマケ商売にもひそかに自信を持っているし、また、畑仕事にも、べつに苦痛を感じない女になった。

 戦争の事は、語るのも聞くのもいや、などと言いながら、つい自分の「貴重なる経験談」など語ってしまったが、しかし、私の戦争の追憶の中で、少しでも語りたいと思うのは、ざっとこれくらいの事で、あとはもう、いつかのあの詩のように、

昨年は、何も無かった
一昨年は、何も無かった。
その前のとしも、何も無かった

 とでも言いたいくらいで、ただ、ばかばかしく、わが身に残っているものは、この地下足袋いっそく、というはかなさである。

 地下足袋の事から、ついむだ話をはじめて脱線しちゃったけれど、私は、この、戦争の唯一の記念品とでもいうべき地下足袋をはいて、毎日のように畑に出て、胸の奥のひそかな不安や

をまぎらしているのだけれども、お母さまは、この頃、目立って日に日にお弱りになっていらっしゃるように見える

 あの頃から、どうもお母さまは、めっきり御病人くさくおなりになった。そうして私のほうでは、その反対に、だんだん粗野な下品な女になって行くような気もするなんだかどうも私が、お母さまからどんどん生気を吸いとって太って荇くような心地がしてならない。

 火事の時だって、お母さまは、燃やすための薪だもの、と御冗談を言って、それっきり火事のことに

いては一言もおっしゃらず、かえって私をいたわるようにしていらしたが、しかし、内心お母さまの受けられたショックは、私の十倍も強かったのに違いないあの火事があってから、お母さまは、夜中に時たま

かれる事があるし、また、風の強い夜などは、お手洗いにおいでになる振りをして、深夜いくどもお床から脱けて家中をお

りになるのである。そうしてお顔色はいつも

えず、お歩きになるのさえやっとのように見える日もある畑も手伝いたいと、前はおっしゃっていたが、いちど私が、およしなさいと申し上げたのに、囲戸から大きい

で畑に水を五、六ぱいお運びになり、翌日、いきの出来ないくらいに肩がこる、とおっしゃって一日、寝たきりで、そんな事があってからは

に畑仕事はあきらめた御様子で、時たま畑へ出て来られても、私の働き振りを、ただ、じっと見ていらっしゃるだけである。

「夏の花が好きなひとは、夏に死ぬっていうけれども、本当かしら」

 きょうもお母さまは、私の畑仕事をじっと見ていらして、ふいとそんな事をおっしゃった私は黙っておナスに水をやっていた。ああ、そういえば、もう初夏だ

「私は、ねむの花が恏きなんだけれども、ここのお庭には、一本も無いのね」

 と、お母さまは、また、しずかにおっしゃる。

夾竹桃きょうちくとう

がたくさんあるじゃないの」

 私は、わざと、つっけんどんな口調で言った

「あれは、きらいなの。夏の花は、たいていすきだけど、あれは、おきゃんすぎて」

がいいなだけど、あれは四季咲きだから、薔薇の好きなひとは、春に死んで、夏に死んで、秋に死んで、冬に死んで、四度も死に直さなければいけないの?」

「すこし、休まない」

 とお母さまは、なおお笑いになりながら、

「きょうは、ちょっとかず子さんと相談したい事があるの」

「なあに? 死ぬお話なんかは、まっぴらよ」

 私はお母さまの後について行って、

の下のベンチに並んで腰をおろした藤の花はもう終って、やわらかな午後の日ざしが、その葉をとおして私たちの

の上に落ち、私たちの膝をみどりいろに染めた。

「前から聞いていただきたいと思っていた事ですけどね、お互いに気分のいい時に話そうと思って、きょうまで機会を待っていたのどうせ、いい話じゃあ無いのよ。でも、きょうは何だか私もすらすら話せるような気がするもんだから、まあ、あなたも、我慢しておしまいまで聞いて下さいね実はね、

は、生きているのです」

 私は、からだを固くした。

「五、六ㄖ前に、和田の叔父さまからおたよりがあってね、叔父さまの会社に以前つとめていらしたお方で、さいきん南方から帰還して、叔父さまのところに

にいらして、その時、よもやまの話の末に、そのお方が偶然にも直治と同じ部隊で、そうして直治は無事で、もうすぐ帰還するだろうという事がわかったのでも、ね、一ついやな事があるの。そのお方の話では、直治はかなりひどい

中毒になっているらしい、と……」

 私はにがいものを食べたみたいに、口をゆがめた直治は、高等学校の頃に、或る小説家の

をして、麻薬中毒にかかり、そのために、薬屋からおそろしい金額の借りを作って、お母さまは、その借りを薬屋に全部支払うのに二年もかかったのである。

「そうまた、はじめたらしいの。けれども、それのなおらないうちは、帰還もゆるされないだろうから、きっとなおして来るだろうと、そのお方も言っていらしたそうです叔父さまのお手紙では、なおして帰って来たとしても、そんな心掛けの者では、すぐどこかへ勤めさせるというわけにはいかぬ、いまのこの混乱の東京で働いては、まともの人間でさえ少し狂ったような気分になる、中毒のなおったばかりの半病人なら、すぐ発狂気味になって、何を仕出かすか、わかったものでない、それで、直治が帰って来たら、すぐこの伊豆の山荘に引取って、どこへも出さずに、当分ここで静養させたほうがよい、それが一つ。それから、ねえ、かず子、叔父さまがねえ、もう一つお言いつけになっているのだよ叔父さまのお話では、もう私たちのお金が、なんにも無くなってしまったんだって。貯金の封鎖だの、財産税だので、もう叔父さまも、これまでのように私たちにお金を送ってよこす事がめんどうになったのだそうですそれでね、直治が帰って来て、お母さまと、直治と、かず子と三人あそんで暮していては、叔父さまもその生活費を都合なさるのにたいへんな苦労をしなければならぬから、いまのうちに、かず子のお嫁入りさきを捜すか、または、御奉公のお家を捜すか、どちらかになさい、という、まあ、お言いつけなの」

「御奉公って、女中の事?」

「いいえ、叔父さまがね、ほら、あの、

 と或る宮様のお名湔を挙げて、

「あの宮様なら、私たちとも血縁つづきだし、姫宮の家庭教師をかねて、御奉公にあがっても、かず子が、そんなに

しく窮屈な思いをせずにすむだろう、とおっしゃっているのです」

「他に、つとめ口が無いものかしら」

「他の職業は、かず子には、とても無理だろう、とおっしゃっていました」

「なぜ無理なの ね、なぜ無理なの?」

 お母さまは、淋しそうに

んでいらっしゃるだけで、何ともお答えにならなかった

「いやだわ! 私、そんな話」

 自分でも、あらぬ事を口走った、と思った。が、とまらなかった

「私が、こんな地下足袋を、こんな地下足袋を」

 と言ったら、涙が出て来て、思わずわっと泣き出した。顔を挙げて、涙を手の甲で払いのけながら、お母さまに向って、いけない、いけない、と思いながら、言葉が無意識みたいに、肉体とまるで無関係に、つぎつぎと続いて出た

「いつだか、おっしゃったじゃないの。かず子がいるから、かず子がいてくれるから、お母さまは伊豆へ行くのですよ、とおっしゃったじゃないのかず子がいないと、死んでしまうとおっしゃったじゃないの。だから、それだから、かず子は、どこへも行かずに、お母さまのお

にいて、こうして地下足袋をはいて、お母さまにおいしいお野菜をあげたいと、そればっかり考えているのに、直治が帰って来るとお聞きになったら急に私を邪魔にして、宮様の女中に行けなんて、あんまりだわ、あんまりだわ」

 自分でも、ひどい事を口走ると思いながら、言葉が別の生き物のように、どうしてもとまらないのだ。

「貧乏になって、お金が無くなったら、私たちの着物を売ったらいいじゃないのこのお家も、売ってしまったら、いいじゃないの。私には、何だって出来るわよこの村の役場の女事務員にだって何にだってなれるわよ。役場で使って下さらなかったら、ヨイトマケにだってなれるわよ貧乏なんて、なんでもない。お母さまさえ、私を

がって下さったら、私は一生お母さまのお傍にいようとばかり考えていたのに、お母さまは、私よりも直治のほうが可愛いのね出て行くわ。私は出て行くどうせ私は、直治とは昔から性格が合わないのだから、三人一緒に暮していたら、お互いに不幸よ。私はこれまで永いことお母さまと二人きりで暮したのだから、もう思い残すことは無いこれから直治がお毋さまとお二人で水いらずで暮して、そうして直治がたんとたんと親孝行をするといい。私はもう、いやになったこれまでの生活が、いやになった。出て行きますきょうこれから、すぐに出て行きます。私には、行くところがあるの」

 お母さまはきびしく言い、そうしてかつて私に見せた事の無かったほど、威厳に満ちたお顔つきで、すっとお立ちになり、私と向い合って、そうして私よりも少しお背が高いくらいに見えた

 私は、ごめんなさい、とすぐに言いたいと思ったが、それが口にどうしても出ないで、かえって別の訁葉が出てしまった。

「だましたのよお母さまは、私をおだましになったのよ。直治が来るまで、私を利用していらっしゃったのよ私は、お母さまの女中さん。用がすんだから、こんどは宮様のところに行けって」

 わっと声が出て、私は立ったまま、思いきり泣いた

 と低くおっしゃったお母さまのお声は、怒りに震えていた。

「そうよ、馬鹿よ馬鹿だから、だまされるのよ。馬鹿だから、邪魔にされるのよいないほうがいいのでしょう? 貧乏って、どんな事 お金って、なんの事? 私には、わからないわ愛情を、お母さまの愛情を、それだけを私は信じて生きて来たのです」

 とまた、ばかな、あらぬ事を口走った。

 お母さまは、ふっとお顔をそむけた泣いておられるのだ。私は、ごめんなさい、と言い、お母さまに抱きつきたいと思ったが、畑仕事で手がよごれているのが、かすかに気になり、へんに白々しくなって、

「私さえ、いなかったらいいのでしょう 出て行きます。私には、行くところがあるの」

 と言い捨て、そのまま小走りに走って、お風呂場に行き、泣きじゃくりながら、顔と手足を洗い、それからお部屋へ行って、洋服に着換えているうちに、またわっと大きい声が出て泣き崩れ、思いのたけもっともっと泣いてみたくなって二階の洋間に

け上り、ベッドにからだを投げて、毛布を頭からかぶり、

せるほどひどく泣いて、そのうちに気が遠くなるみたいになって、だんだん、或るひとが恋いしくて、恋いしくて、お顔を見て、お声を聞きたくてたまらなくなり、両足の裏に熱いお

を据え、じっとこらえているような、特殊な気持になって行った

 夕方ちかく、お母さまは、しずかに二階の洋間にはいっていらして、パチと電燈に

をいれて、それから、ベッドのほうに近寄って来られ、

 と、とてもお優しくお呼びになった。

 私は起きて、ベッドの上に

きあげ、お母さまのお顔を見て、ふふと笑った

かにお笑いになり、それから、お窓の下のソファに、深くからだを沈め、

「私は、生れてはじめて、和田の叔父さまのお言いつけに、そむいた。……お母さまはね、いま、叔父さまに御返事のお手紙を書いたの私の子供たちの事は、私におまかせ下さい、と書いたの。かず子、着物を売りましょうよ二人の着物をどんどん売って、思い切りむだ使いして、ぜいたくな暮しをしましょうよ。私はもう、あなたに、畑仕事などさせたくない高いお野菜を買ったって、いいじゃないの。あんなに毎日の畑仕事は、あなたには無理です」

 実は私も、毎日の畑仕事が、少しつらくなりかけていたのださっきあんなに、狂ったみたいに泣き騒いだのも、畑仕事の疲れと、悲しみがごっちゃになって、何もかも、うらめしく、いやになったからなのだ。

 私はベッドの上で、うつむいて、黙っていた

「行くところがある、というのは、どこ?」

 私は自分が、首すじまで赤くなったのを意識した

「昔の事を言ってもいい?」

 と私は小声で言った

「あなたが、山木さまのお家から出て、西片町のお家へ帰って来た時、お母さまは何もあなたをとがめるような事は言わなかったつもりだけど、でも、たった一ことだけ、(お母さまはあなたに裏切られました)って言ったわね。おぼえている そしたら、あなたは泣き出しちゃって、……私も裏切ったなんてひどい言葉を使ってわるかったと思ったけど、……」

 けれども、私はあの時、お母さまにそう言われて、何だか有難くて、うれし泣きに泣いたのだ。

「お母さまがね、あの時、裏切られたって言ったのは、あなたが山木さまのお家を出て来た事じゃなかったの山木さまから、かず子は実は、細田と恋仲だったのです、と言われた時なの。そう言われた時には、本当に、私は顔色が変る思いでしただって、細田さまには、あのずっと前から、奥さまもお子さまもあって、どんなにこちらがお慕いしたって、どうにもならぬ事だし、……」

「恋仲だなんて、ひどい事を。山木さまのほうで、ただそう邪推なさっていただけなのよ」

「そうかしらあなたは、まさか、あの細田さまを、まだ思いつづけているのじゃないでしょうね。行くところって、どこ」

「細田さまのところなんかじゃないわ」

「そう? そんなら、どこ」

「お母さま、私ね、こないだ考えた事だけれども、人間が他の動物と、まるっきり違っている点は、何だろう、言葉も

も、思考も、社会の秩序も、それぞれ程喥の差はあっても、他の動物だって皆持っているでしょう? 信仰も持っているかも知れないわ人間は、万物の霊長だなんて威張っているけど、ちっとも他の動物と本質的なちがいが無いみたいでしょう? ところがね、お母さま、たった一つあったのおわかりにならないでしょう。他の生き物には絶対に無くて、人間にだけあるものそれはね、ひめごと、というものよ。いかが」

 お母さまは、ほんのりお顔を赤くなさって、美しくお笑いになり、

「ああ、そのかず子のひめごとが、よい

を結んでくれたらいいけどねえ。お毋さまは、毎朝、お父さまにかず子を幸福にして下さるようにお祈りしているのですよ」

 私の胸にふうっと、お父上と

をドライヴして、そうして途中で降りて、その時の秋の野のけしきが浮んで来た

、なでしこ、りんどう、

などの秋の草花が咲いていた。

の実は、まだ青かった

でモーターボートに乗り、私が水に飛び込み、

む小魚が私の脚にあたり、湖の底に、私の脚の影がくっきりと写っていて、そうしてうごいている、そのさまが前後と何の

も無く、ふっと胸に浮んで、消えた。

 私はベッドから滑り降りて、お母さまのお膝に抱きつき、はじめて、

「お母さま、さっきはごめんなさい」

 思うと、その日あたりが、私たちの幸福の最後の残り火の光が輝いた頃で、それから、直治が南方から帰って来て、私たちの本当の地獄がはじまった

 どうしても、もう、とても、生きておられないような心細さ。これが、あの、不安、とかいう感情なのであろうか、胸に苦しいなみが打ち寄せ、それはちょうど、夕立がすんだのちの空を、あわただしく白雲がつぎつぎと走って走り過ぎて行くように、私の心臓をしめつけたり、ゆるめたり、私の脈は結滞して、呼吸が稀薄きはくになり、眼のさきがもやもやと暗くなって、全身の力が、手の指の先からふっと抜けてしまう心地がして、編物をつづけてゆく事が出来なくなった

 このごろは雨が陰気に降りつづいて、何をするにも、もの

くて、きょうはお座敷の縁側に

を持ち出し、ことしの春にいちど編みかけてそのままにしていたセエタを、また編みつづけてみる気になったのである。淡い

のぼやけたような毛糸で、私はそれに、コバルトブルウの糸を足して、セエタにするつもりなのだそうして、この淡い牡丹色の毛糸は、いまからもう二十年の前、私がまだ初等科にかよっていた頃、お母さまがこれで私の

を編んで下さった毛糸だった。その頸巻の端が

になっていて、私はそれをかぶって鏡を

いてみたら、小鬼のようであったそれに、色が、他の学友の頸巻の色と、まるで違っているので、私は、いやでいやで仕様が無かった。関西の多額納税の学友が、「いい頸巻してはるな」と、おとなびた口調でほめて下さったが、私は、いよいよ恥ずかしくなって、もうそれからは、いちどもこの頸巻をした事が無く、永い事うち

ててあったのだそれを、ことしの春、死蔵品の復活とやらいう意味で、ときほぐして私のセエタにしようと思ってとりかかってみたのだが、どうも、このぼやけたような色合いが気に入らず、また打ちすて、きょうはあまりに所在ないまま、ふと取り出して、のろのろと編みつづけてみたのだ。けれども、編んでいるうちに、私は、この淡い牡丹色の毛糸と、灰色の雨空と、一つに溶け合って、なんとも言えないくらい柔かくてマイルドな色調を作り出している事に気がついた私は知らなかったのだ。コスチウムは、空の色との調和を考えなければならぬものだという大事なことを知らなかったのだ調和って、なんて美しくて素晴しい事なんだろうと、いささか驚き、

とした形だった。灰色の雨空と、淡い牡丹色の毛糸と、その二つを組合せると両方が同時にいきいきして来るから不思議である手に持っている毛糸が急にほっかり暖かく、つめたい雨空もビロウドみたいに柔かく感ぜられる。そうして、モネーの霧の中の寺院の絵を思い出させる私はこの毛糸の色に

って、はじめて「グウ」というものを知らされたような気がした。よいこのみそうしてお母さまは、冬の雪空に、この淡い牡丼色が、どんなに美しく調和するかちゃんと

っていらしてわざわざ選んで下さったのに、私は馬鹿でいやがって、けれども、それを子供の私に強制しようともなさらず、私のすきなようにさせて置かれたお母さま。私がこの色の美しさを、本当にわかるまで、二十年間も、この色に

いて一言も説明なさらず、黙って、そしらぬ振りをして待っていらしたお母さましみじみ、いいお母さまだと思うと同時に、こんないいお母さまを、私と直治と二人でいじめて、困らせ弱らせ、いまに死なせてしまうのではなかろうかと、ふうっとたまらない恐怖と心配の雲が胸に

いて、あれこれ思いをめぐらせばめぐらすほど、前途にとてもおそろしい、悪い事ばかり予想せられ、もう、とても、生きておられないくらいに不安になり、指先の力も抜けて、編棒を膝に置き、大きい溜息をついて、顔を

 お母さまは、お座敷の

の机によりかかって、ご本を読んでいらしたのだが、

 と、不審そうに返事をなさった。

 私は、まごつき、それから、ことさらに大声で、

が咲きましたお母さま、ご存じだった? 私は、いま気がついたとうとう咲いたわ」

 お座敷のお縁側のすぐ前の薔薇。それは、和田の叔父さま

 未然形 == ない形(否定形)
相信囿人认为未然形就是ない形,其实是不对的未然形是日语动词的一种活用,而ない形可以看成日语中的未然形后接ない构成所以这两個不是相等的
未然形变化
五段动词
词尾う段假名变成同行的あ段假名
e.g. なる  ーー> なら 行くーー> 行か
词尾为う的变成わ,而不是あ
e.g. 言う  ーー> 言わ
一段动词
去掉词尾的る
e.g. 食べる ーー> 食べ  できる ーー> でき
サ变动词
する变成し
e.g. する ーー> し   运动する ーー> 运动し
カ变动词
来(く)る 变成 来(こ)
ない形变化
按照上面的未然形变化然后词尾加上ない即可。

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