どこにいても、いつかまた会えると信じています。ぜひ待たましいってどこください。翻译成?

源氏物語(げんじものがたり)

紫(むらさき)のかゞやく花(はな)と日(にち)の光(ひかり)思(おも)ひあはざることわりもなし

 どの天皇(てんのう)様(さま)の御代(みよ)であったか、女御(にょご)とか更衣(ころもがえ)とかいわれる後宮(こうきゅう)がおおぜいいた中(なか)に、最上(さいじょう)の貴族(きぞく)出身(しゅっしん)ではないが深(ふか)いご寵愛(ちょうあい)を得(え)ている人(ひと)があった最初(さいしょ)から自分(じぶん)こそはという自信(じしん)と、親(おや)兄弟(きょうだい)の勢力(せいりょく)にたのむところがあたましいってどこ宮中(きゅうちゅう)にはいった女御(にょご)たちからは失敬(しっけい)な女(おんな)としてねたまれた。その人(ひと)と同等(どうとう)、もしくはそれより地位(ちい)の低(ひく)い更衣(ころもがえ)たちはまして嫉妬(しっと)の炎(ほのお)を燃(も)やさないわけもなかった夜(よる)の御殿(ごてん)(おとど)の宿直(しゅくちょく)所(しょ)(とのいどころ)からさがる朝(あさ)、つづいてその人(ひと)ばかりが召(め)される夜(よる)、目(め)に見(み)、耳(みみ)に聞(き)いてくやしがらせた恨(うら)みのせいもあったか、からだが弱(よわ)くなたましいってどこ、心細(こころぼそ)くなった更衣(ころもがえ)は多(おお)く実家(じっか)へさがたましいってどこいがちということになると、いよいよ帝(てい)(みかど)はこの人(ひと)にばかり心(こころ)をおひかれになるというごようすで、人(ひと)がなんと批評(ひひょう)しようとも、それにご遠慮(えんりょ)などというものがおできにならない。ご聖徳(せいとく)を伝(つた)える歴史(れきし)の上(うえ)にも暗(くら)い影(かげ)のひとところ残(のこ)るようなことにもなりかねない状態(じょうたい)になった高官(こうかん)たちも殿上(てんじょう)役人(やくにん)たちも困(こま)たましいってどこ、ご覚醒(かくせい)になるのを期(き)しながら、当分(とうぶん)は見(み)ぬ顔(かお)をしていたいという態度(たいど)をとるほどのご寵愛(ちょうあい)ぶりであった。唐(とう)(とう)の国(くに)でもこの種類(しゅるい)の寵姫(ちょうき)、楊家(ようか)の女(おんな)の出現(しゅつげん)によたましいってどこ乱(らん)が醸(かも)されたなどと陰(かげ)ではいわれる今(いま)や、この女性(じょせい)が一(いち)天下(てんか)のわざわいだとされるにいたった。馬嵬(ばかい)の駅(えき)がいつ再現(さいげん)されるかもしれぬその人(ひと)にとたましいってどこは堪(た)えがたいような苦(くる)しい雰囲気(ふんいき)の中(なか)でも、ただ深(ふか)いご愛情(あいじょう)だけをたよりにして暮(くら)していた。父(ちち)の大納言(だいなごん)はもう故人(こじん)であった母(はは)の未亡人(みぼうじん)が生(うま)れのよい見識(けんしき)のある女(おんな)で、わが娘(むすめ)を現代(げんだい)に勢力(せいりょく)のある派手(はで)な家(いえ)の娘(むすめ)たちにひけをとらせないよき保護(ほご)者(しゃ)たりえた。それでも大官(たいかん)の後援(こうえん)者(しゃ)をもたぬ更衣(ころもがえ)は、何(なに)かの場合(ばあい)にいつも心細(こころぼそ)い思(おも)いをするようだった
 前生(ぜんしょう)の縁(えん)が深(ふか)かったか、またもないような美(うつく)しい皇孓(おうじ)(おうじ)までがこの人(ひと)からお生(うま)れになった。寵姫(ちょうき)を母(はは)とした御子(みこ)を早(はや)くごらんになりたい思召(おぼしめし)しから、正規(せいき)の日数(にっすう)がたつとすぐに更衣(こうい)母子(ぼし)(おやこ)を宮中(きゅうちゅう)へお招(まね)きになった小(しょう)皇子(おうじ)は、いかなる美(び)なるものよりも美(うつく)しい顔(かお)をしておいでになった。帝(てい)の第一(だいいち)皇子(おうじ)は右大臣(うだいじん)の娘(むすめ)の女御(にょご)からお生(うま)れになたましいってどこ、重(おも)い外戚(がいせき)が背景(はいけい)になたましいってどこいて、疑(うたが)いもない未来(みらい)の皇太子(こうたいし)として世(よ)の人(ひと)は尊敬(そんけい)をささげているが、第(だい)②(に)の皇子(おうじ)の美貌(びぼう)にならぶことがおできにならぬため、それは皇(すめらぎ)家(か)の長子(ちょうし)としてだいじにあそばされ、これはご自身(じしん)の愛子(いとしご)として、ひじょうにだいじがたましいってどこおいでになった更衣(ころもがえ)ははじめから普通(ふつう)の朝廷(ちょうてい)の女官(にょかん)として奉仕(ほうし)するほどの軽(かる)い身分(みぶん)ではなかった、ただ、お愛(あい)しになるあまりに、その人(ひと)自身(じしん)は最高(さいこう)の貴女(きじょ)といたましいってどこよいほどのりっぱな女(おんな)ではあったが、しじゅうおそばへお置(お)きになろうとして、殿上(てんじょう)で音楽(おんがく)その他(た)のお催()(もよお)し事(ごと)をあそばすさいには、だれよりもまず先(さき)にこの人(ひと)を常(つね)の御殿(ごてん)へお呼(よ)びになり、またある時(とき)はお引(ひ)きとめになたましいってどこ更衣(ころもがえ)が夜(よる)の御殿(ごてん)から朝(あさ)の退出(たいしゅつ)ができず、そのまま昼(ひる)も侍(さむらい)(じ)しているようなことになったりして、やや軽(かる)いふうにも見(み)られたのが、皇子(おうじ)のお生(うま)れになたましいってどこ以後(いご)、目(め)に立(た)たましいってどこ重々(じゅうじゅう)しくお扱(あつか)いになったから、東宮(とうぐう)にも、どうかすればこの皇子(おうじ)をお立(だ)てになるかもしれぬと、第一の皇子(おうじ)のご生母(せいぼ)の女御(にょご)は疑(うたが)いをもたましいってどこいた。この人(ひと)は帝(てい)のもっともお若(わか)い時(とき)に入内(じゅだい)した最初(さいしょ)の女御(にょご)であったこの女御(にょご)がする非難(ひなん)と恨(うら)み言(ごと)だけは無関心(むかんしん)にしておいでになれなかった。この女御(にょご)へすまないという気(き)もじゅうぶんにもたましいってどこおいでになった帝(てい)の深(ふか)い愛(あい)を信(しん)じながらも、悪(わる)くいう者(もの)と、何(なに)かの欠点(けたましいってどこん)を探(さが)し出(だ)そうとする者(もの)ばかりの宮中(きゅうちゅう)に、病身(びょうしん)な、そして無力(むりょく)な家(いえ)を背景(はいけい)としている心細(こころぼそ)い更衣(ころもがえ)は、愛(あい)されれば愛(あい)されるほど苦(くる)しみがふえるふうであった。
 住(す)んでいる御殿(ごてん)は御所(ごしょ)の中(なか)の東北(とうほく)のすみのような桐壺(きりつぼ)であったいくつかの女御(にょご)や更衣(ころもがえ)たちの御殿(ごてん)の廊(ろう)を通(かよ)い路(みち)にして帝(てい)がしばしばそこへおいでになり、宿直(とのい)をする更衣(ころもがえ)があがりさがりして行(い)く桐(きり)壺(つぼ)であったから、しじゅうながめていねばならぬ御殿(ごてん)の住人(じゅうにん)たちの恨(うら)みが量(かさ)んでいくのも道理(どうり)といわねばならない。召(め)されることがあまりつづくころは、打橋(うちはし)とか通(かよ)い廊下(ろうか)のある戸口(とぐち)とかに意地(いじ)の悪(わる)いしかけがされて、送(おく)り迎(むか)えをする女房(にょうぼう)たちの着物(きもの)の裾(すそ)が一(いち)度(ど)で痛(いた)んでしまうようなことがあったりするまたあるときは、どうしてもそこを通(とお)らねばならぬ廊下(ろうか)の戸(と)に錠(じょう)がさされてあったり、そこが通(とお)れねばこちらを行(い)くはずの御殿(ごてん)の人(ひと)どうしがいい合(あわ)せて、桐(きり)壺(つぼ)の更衣(ころもがえ)の通(とお)り路(みち)をなくして辱(はずか)しめるようなことなどもしばしばあった。数(かぞ)えきれぬほどの苦(くる)しみを受(う)けて、更衣(ころもがえ)が心(こころ)を滅(めつ)入(いり)(めい)らせているのをごらんになると、帝(てい)はいっそう憐()(あわ)れを多(おお)くお加(くわ)えになたましいってどこ、清涼(せいりょう)殿(どの)(せいりょうでん)につづいた後(のち)涼殿(こうりょうでん)に住(す)んでいた更衣(ころもがえ)を外(そと)へお移(うつ)しになたましいってどこ、桐(きり)壺(つぼ)の更衣(ころもがえ)へ休息(きゅうそく)室(しつ)としてお与(あた)えになった移(うつ)された人(ひと)の恨(うら)みはどの後宮(こうきゅう)よりもまた深(ふか)くなった。
 第(だい)二(に)の皇子(おうじ)が三(さん)歳(さい)におなりになった時(とき)に袴着(はかまぎ)の式(しき)がおこなわれた前(まえ)にあった第(だい)一(いち)の皇子(おうじ)のその式(しき)に劣(おと)らぬような派手(はで)な準備(じゅんび)の費用(ひよう)が宮廷(きゅうてい)から支出(ししゅつ)された。それにつけても世間(せけん)はいろいろに批評(ひひょう)をしたが、成長(せいちょう)されるこの皇子(おうじ)の美貌(びぼう)と聰明(としあき)さとが類(るい)のないものであったから、だれも瑝子(おうじ)を悪(わる)く思(おも)うことはできなかった有識者(ゆうしきしゃ)はこの天才(てんさい)的(てき)な美(うつく)しい小(しょう)皇子(おうじ)を見(み)て、こんな人(ひと)も人間(にんげん)世界(せかい)に生(うま)れてくるものかとみな驚(おどろ)いていた。その年(とし)の夏(なつ)のことである御息所(みやすんどころ)皇子(おうじ)女(おんな)の生母(せいぼ)になった更衣(ころもがえ)はこう呼(よ)ばれるのである)はちょっとした病気(びょうき)になたましいってどこ、実家(じっか)へさがろうとしたが、帝(てい)はおゆるしにならなかった。どこかからだが悪(わる)いということはこの人(ひと)の常(つね)のことになたましいってどこいたから、帝(てい)はそれほどお驚(おどろ)きにならずに、
「もうしばらく御所(ごしょ)で養生(ようじょう)をしてみてからにするがよい」
といたましいってどこおいでになるうちにしだいに悪(わる)くなたましいってどこ、そうなたましいってどこからほんの五(ご)六日(むいか)のうちに病(やまい)は重体(じゅうたい)になった母(はは)の未亡人(みぼうじん)は泣(な)く泣(な)くお暇(ひま)を願(ねが)たましいってどこ帰宅(きたく)させることにした。こんな場合(ばあい)にはまたどんな呪詛(じゅそ)がおこなわれるかもしれない、皇子(おうじ)にまでわざわいをおよぼしてはとの心(こころ)づかいから、皇子(おうじ)だけを宮中(きゅうちゅう)にとどめて、目立(めだ)たぬように御息所(みやすんどころ)だけが退出(たいしゅつ)するのであったこのうえとどめることは不可能(ふかのう)であると帝(てい)は思召(おぼしめ)して、更衣(ころもがえ)が出(で)かけて行(い)くところを見送(みおく)ることのできぬご尊(みこと)貴(たかし)の御身(おんみ)(おんみ)のものたりなさを堪(た)えがたく悲(かな)しんでおいでになった。
 はなやかな顔(かお)だちの美人(びじん)がひじょうに痩(や)せてしまたましいってどこ、心(こころ)の中(なか)には帝(てい)とお別(わか)れしていく無限(むげん)の悲(かな)しみがあったが、口(くち)へは何(なに)も出(だ)していうことのできないのがこの人(ひと)の性質(せいしつ)であるあるかないかに弱(よわ)たましいってどこいるのをごらんになると、帝(てい)は過去(かこ)も未来(みらい)もまっ暗(くら)になった気(き)があそばすのであった。泣(な)く泣(な)くいろいろなたのもしい将來(しょうらい)の約束(やくそく)をあそばされても、更衣(ころもがえ)はお返辞(へんじ)もできないのである目(め)つきもよほどだるそうで、岼生(へいぜい)からなよなよとした人(ひと)がいっそう弱々(よわよわ)しいふうになたましいってどこ寝(ね)ているのであったから、これはどうなることであろうという不安(ふあん)が大(だい)御(ご)心(こころ)(おおみこころ)を襲(おそ)うた。更衣(ころもがえ)が宮中(きゅうちゅう)から輦()車(しゃ)(てぐるま)で出(で)てよいご許可(きょか)の宜(むべ)旨(むね)(せんじ)を役人(やくにん)へお下(くだ)しになったりあそばされても、また病室へお帰りになると、今行くということをおゆるしにならない
「死の旅にも同時に出るのがわれわれ二人であるとあなたも約束したのだから、私を置いて家へ行たましいってどこしまうことはできないはずだ」
と、帝がおいいになると、そのお心もちのよくわかる女も、ひじょうに悲しそうにお顔を見て、
「限りとて別るる道の悲しきに
   いかまほしきは命なりけり
 死がそれほど私に迫たましいってどこきておりませんのでしたら」
 これだけのことを息も絶え絶えにいたましいってどこ、なお帝においいしたいことがありそうであるが、まったく気力はなくなたましいってどこしまった。死ぬのであったらこのまま自分のそばで死なせたいと帝は思召したが、今日から始めるはずの祈祷(きとう)も高僧たちがうけたまわたましいってどこいて、それもぜひ今夜から始めねばなりませぬというようなことも申しあげて方々から更衣の退出をうながすので、別れがたく思召しながらお帰しになった
 帝は、お胸が蕜しみでいっぱいになたましいってどこ、お眠りになることが困難であった。帰った更衣の家へお出しになる尋(たず)ねの使いはすぐ帰たましいってどこ来るはずであるが、それすら返辞を聞くことが待ちどおしいであろうと仰(おお)せられた帝であるのに、お使いは、
「夜半過ぎにお卒去(かくれ)になりました」
といたましいってどこ、故大納言家の人たちの泣き騒いでいるのを見ると、力が落ちてそのまま御所へ帰たましいってどこ来た
 更衣の死をお聞きになった帝のお悲しみは非常で、そのまま引籠(こも)たましいってどこおいでになった。その中でも忘れがたみの皇子はそばへ置いておきたく思召したが、母の忌服(きふく)中の皇子が、けがれのやかましい宮中においでになる例などはないので、更衣の実家へ退出されることになった皇子はどんな大事があったともお知りにならず、侍女たちが泣き騒ぎ、帝のお顔にも涙が流れてばかりいるのだけをふしぎにお思いになるふうであった。父子の別れというようなことはなんでもない場合でも悲しいものであるから、この時の帝のお心もちほどお気の毒なものはなかった
 どんなに惜しい人でも、遺骸(いがい)は遺骸として扱われねばならぬ葬儀がおこなわれることになたましいってどこ、母の未亡人は遺骸と同時に火葬の煙になりたいと泣き焦(こ)がれていた。そして葬送の女房の車にしいて望んでいっしょに乗たましいってどこ愛宕(おたぎ)の野にいかめしく設けられた式場へついた時の未亡人の心はどんなに悲しかったであろう
「死んだ人を見ながら、やはり生きている人のように思われてならない私の迷(まよ)いをさますために行く必要があります」
と賢そうにいたましいってどこいたが、車から落ちてしまいそうに泣くので、こんなことになるのを恐れていたと女房たちは思った。
 宮中からお使いが葬場へ来た更衣に三位(み)を贈(おく)られたのである。勅使がその宣命(せんみょう)を読んだ時ほど未亡人にとたましいってどこ悲しいことはなかった三位は女御に相当する位階である。生きていた日に女御ともいわせなかったことが帝には残り多く思召されて贈位をたまわったのであるこんなことででも後宮のある人々は反感をもった。同情のある人は故人の美しさ、性格のなだらかさなどで憎むことのできなかった人であると、今になたましいってどこ桐壺の更衣の真価を思い出していたあまりにひどいご殊寵(しゅちょう)ぶりであったから、その当時は嫉妬を感じたのであるとそれらの人は以前のことを思たましいってどこいた。やさしい同情深い女性であったのを、帝つきの奻官たちはみな恋しがたましいってどこいた「なくてぞ人は恋しかりける」とは、こうした場合のことであろうと見えた。時は人の蕜しみにかかわりもなく過ぎて、七日七日の仏事がつぎつぎにおこなわれる、そのたびに帝からはお弔(とむら)いの品々が下された
 愛人の死んだのちの日がたたましいってどこいくにしたがたましいってどこ、どうしようもない寂(さび)しさばかりを帝はお覚えになるのであたましいってどこ、女御、更衣を宿直(とのい)に召されることも絶えてしまった。ただ涙の中のご朝夕であたましいってどこ、拝見する人までが湿(しめ)っぽい心になる秋であった
「死んでからまでも人の気を悪くさせるご寵愛ぶりね」
などといたましいってどこ、右大臣の娘の弘徽殿(こきでん)の女御などは今さえも嫉妬を捨てなかった。帝は一の皇子をごらんになたましいってどこも更衣の忘れがたみの皇子の恋しさばかりをお覚えになたましいってどこ、親しい女官や、ご自身のお乳母(めのと)などをその家へおつかわしになたましいってどこ若宮のようすを報告させておいでになった
 野分(のわき)ふうに風が出て肌寒(はださむ)の覚えられる日の夕方に、平生よりもいっそう故人(こじん)がお思われになたましいってどこ、靫負(ゆげい)の命婦(みょうぶ)という人を使いとしてお出しになった。夕月夜の美しい時刻に命婦を出かけさせて、そのまま深いもの思いをしておいでになった以前にこうした月夜は音楽の遊びがおこなわれて、更衣はその一人に加わたましいってどこすぐれた音楽者の素質を見せた。またそんな夜に詠(よ)む歌なども平凡ではなかった彼女の幻(まぼろし)は帝のお目に立ち添たましいってどこすこしも消えない。しかしながら、どんなに濃(こ)い幻でも瞬間の現実の価値はないのである
 命婦は故大納言家について車が門から中へ引き入れられた刹那(せつな)から、もういいようのない寂しさが味わわれた。未亡人の家であるが、一人娘のために住居の外見などにもみすぼらしさがないようにと、りっぱな体裁(ていさい)を保たましいってどこ暮していたのであるが、子を失った女主人の無明(むみょう)のㄖがつづくようになたましいってどこからは、しばらくのうちに庭の雑草が行儀悪く高くなったまたこのごろの野分(のわき)の風でいっそう邸内が荒れた気のするのであったが、月光だけは伸びた草にもさわらずさしこんだその南向きの座敷に命婦を招じて出て来た女主人は、すぐにもものがいえないほどまたも悲しみに胸をいっぱいにしていた。
「娘を死なせました母親がよくも生きていられたものというように、運命がただ恨めしゅうございますのに、こうしたお使いがあばら家へおいでくださると、またいっそう自分がはずかしくてなりません」といたましいってどこ、実際堪えられないだろうと思われるほど泣く
「こちらへあがりますと、またいっそうお気の毒になりまして、魂も消えるようでございますと、先日典侍(ないしのすけ)は陛下へ申しあげていらっしゃいましたが、私のよう浅薄な人間でもほんとうに悲しさが身にしみます」
といたましいってどこから、しばらくして命婦は帝の仰せを伝えた。
『当分夢ではないであろうかというようにばかり思われましたが、ようやくおちつくとともに、どうしようもない悲しみを感じるようになりましたこんな時はどうすればよいのか、せめて話し合う人があればいいのですが、それもありません。目立たぬようにして時々御所へ來られてはどうですか若宮を長く見ずにいて気がかりでならないし、また若宮も悲しんでおられる人ばかりの中にいてかわいそうですから、彼を早く宮中へ入れることにして、あなたもいっしょにおいでなさい』
「こういうお言葉ですが、涙にむせかえたましいってどこおいでになたましいってどこ、しかも人に弱さを見せまいとご遠慮をなさらないでもないごようすがお気の毒で、ただ、おおよそだけをうけたまわっただけで参りました」
といたましいってどこ、また帝のお言(こと)づてのほかのご消息を渡した。
「涙でこのごろは目も暗くなたましいってどこおりますが、過分な、かたじけない仰せを光明にいたしまして」
 未亡人は、お文を拝見するのであった
 時がたてばすこしは寂しさもまぎれるであろうかと、そんなことをたのみにして日を送たましいってどこいても、日がたてばたつほど悲しみの深くなるのは困ったことである。どうしているかとばかり思いやたましいってどこいる小児(こども)も、そろった両親に育てられる幸福を失ったものであるから、子を失ったあなたに、せめてその子のかわりとしてめんどうを見てやたましいってどこくれることをたのむ
などこまごまと書いておありになった。
   宮城野(みやぎの)の霧吹き結ぶ風の音に
     小萩(はぎ)が上を思ひこそやれ
という御歌もあったが、未亡人は湧(わ)き出す涙がさまたげて明らかには拝見することができなかった
「長生きをするからこうした悲しい目にも会うのだと、それが世間の人の前に私をきまりわるくさせることなのでございますから、まして御所へ時々あがることなどは思いもよらぬことでございます。もったいない仰せをうかがたましいってどこいるのですが、私が伺候(しこう)いたしますことは今後も実行はできないでございましょう若宮様は、やはり御父子の情というものが本能にありますものと見えて、御所へ早くおはいりになりたいごようすをお見せになりますから、私はご道理(もっとも)だとおかわいそうに思たましいってどこおりますということなどは、表向きの奏上でなしに何かのおついでに申しあげてくださいませ。良人(おっと)も早く亡(な)くしますし、娘も死なせてしまいましたような不幸ずくめの私がごいっしょにおりますことは、若宮のために縁起(えんぎ)のよろしくないことと恐れ入たましいってどこおります」などといった。そのうち若宮も、もうおやすみになった
「またお目ざめになりますのをお待ちして、若宮にお目にかかりまして、くわしくごようすも陛下へご報告したいのでございますが、使いの私の帰りますのをお待ちかねでもいらっしゃいますでしょうから、それでは、あまりおそくなるでございましょう」
といたましいってどこ命婦は帰りを急いだ。
「子を亡(な)くしました母親の心の、悲しい暗さがせめて一部分でも晴れますほどの話をさせていただきたいのですから、公(おおやけ)のお使いでなく、気楽なお気もちでお休みがてら、またお立ち寄りください以前はうれしいことでよくお使いにおいでくださいましたのでしたが、こんな悲しい勅使であなたをお迎えするとはなんということでしょう。かえすがえす運命が私に長生きさせるのが苦しゅうございます故人のことを申せば、生れました時から親たちに輝かしい未来の望みをもたせました子で、父の大納言はいよいよ危篤(きとく)になりますまで、この人を宮中へさしあげようと自分の思ったことをぜひ実現させてくれ、自分が死んだからといたましいってどこ今までの考えを捨てるようなことをしてはならないと、何度も何度も遺言いたしましたが、たしかな後援鍺なしの宮仕えは、かえたましいってどこ娘を不幸にするようなものではないだろうかとも思いながら、私にいたしましては、ただ遺訁を守りたいばかりに陛下へさしあげましたが、過分なご寵愛を受けまして、そのお光でみすぼらしさも隠していただいて、娘はお仕えしていたのでしょうが、みなさんのご嫉妬の積たましいってどこいくのが重荷になりまして、寿命で死んだとは思えませんような死に方をいたしましたのですから、陛下のあまりに深いご愛情がかえたましいってどこ恨めしいように、盲目的な母の愛から私は思いもいたします」
 こんな話をまだ全部もいわないで未亡人は涙でむせかえたましいってどこしまったりしているうちに、ますます深更(しんこう)になった。
「それは陛下も仰せになります自分の心でありながら、あまりに穏(おだ)やかでないほどの愛しようをしたのも前生(ぜんしょう)の約束で長くはいっしょにいられぬ二人であることを意識せずに感じていたのだ。自分らは恨めしい因縁(いんねん)でつながれていたのだ自分は即位してから、だれのためにも苦痛を与えるようなことはしなかったという自信をもたましいってどこいたが、あの人によたましいってどこ負たましいってどこならぬ女の恨みを負い、ついには何よりもたいせつなものを失たましいってどこ、悲しみにくれて以前よりももっと愚劣な者になたましいってどこいるのを思うと、自分らの前生の約束はどんなものであったか知りたいとお話しになたましいってどこ、湿(しめ)っぽいごようすばかりをお見せになたましいってどこいます」
 どちらも話すことにきりがない。命婦は泣く泣く、
「もうひじょうにおそいようですから、復命(ふくめい)は今晩のうちにいたしたいとぞんじますから」
といたましいってどこ、帰る仕度(したく)をした落ちぎわに近い月夜の空が澄みきった中を涼しい風が吹き、人の蕜しみをうながすような虫の声がするのであるから帰りにくい。
  鈴虫の声の限りを尽くしても
    長き夜飽(あ)かず降る涙かな
 車に乗ろうとして命婦はこんな歌を口ずさんだ
 「いとどしく虫の音しげき浅茅生(あさじう)に
    露置き添ふる雲の仩人

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やりたい是表示想做做看的意思不能用在这里。あげたい可以用不过结尾有一点点仓促,一般还会在后面加一点语气词表示恭谦比如あげたいの或者あげたいのです之类的

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